まにまに音楽生活

よくある音楽、本、生活などについてのブログです。

BEST TRACKS & ALBUMS 2015

ベストトラック&アルバムです。記事も書いてないのに。
どんどん新譜聴かなくなってますが、なぜか今年は毎週カウントダウンTV見る習慣がついてしまったので、引き裂かれています。できればあとでコメントを足したい。

まずはベストトラック10曲。順不同です。


1. Kendrick Lamar 「Alright」

2. Exo「Love Me Light」

3. Girl Band「Paul」

4. cero「Summer Soul」

5. OMSB「Think Good」

6. 井手健介と母船「青い山賊」

7. 加山雄三 feat. Punpee「お嫁においで 2015」 

8. 三代目J Soul Brothers「Summer Madness」

9. テニスコーツ「光輪」

10. Carly Rae Jepsen「I Really Like You」

 

続いてベストアルバム10枚。こちらも順不同。

 

1. cero「Obscure Ride」

f:id:ukkuri190:20151215230934p:plain

2.トリプルファイヤー「エピタフ」

f:id:ukkuri190:20151215224817p:plain

3. Girl Band「Holding Hands With Jamie」

f:id:ukkuri190:20151215225238p:plain

4.Sufjan Stevens「Carrie & Lowell」

f:id:ukkuri190:20151215230414p:plain

5.テニスコーツ「Music Exists disc.1」

f:id:ukkuri190:20151215230128p:plain

6.Kendrick Lamar「To Pimp A Butterfly」

f:id:ukkuri190:20151215230539p:plain

7.Jim O'Rourke「Simple Songs」

f:id:ukkuri190:20151215230615p:plain

8.僕とジョルジュ「S.T.」

f:id:ukkuri190:20151215230732p:plain

9.Deerhunter「Fading Frontier」

f:id:ukkuri190:20151215230658p:plain

10.OMSB「Think Good」

f:id:ukkuri190:20151215233143p:plain

 

昨年末のディアンジェロからの今年のケンドリックということで、ブラックミュージックによる新しい大きな潮流が全てをなぎ倒したように見えた2015年。それは、米国の、ジャズやブルーズあるいはそれ以前の音楽から地つづきの、こう言ってよければ「歴史」を感じさせるものでした。で、国内はというと歴史はほとんど無効。二次元と三次元の区別はつかなくなり、フラット化が進みすぎて、全ては組み合わせのセンスと、ポップセンス(距離感)の掛け算でしかないように見えてきまいました。

僕はもっと組み合わせを超越した、圧倒的な、圧倒的な個の才能が聴きたい。2016年は、テン年代の決定打(しかしおそらくは孤立する)となるであろう七尾旅人の新作を待ちたいと思います。

備忘録

備忘録です。

PUNPEE。今年いまのとこベストかも。


Beach Baby。

トリプルファイヤー。


Girl's Day。


Jesse Colin Young。

Deerhunter。

Billie Idle。

なんとなく、デイジー。

兵士Aくんの歌

七尾旅人Soundcloudにアップした新曲が素晴らしい。

911ファンタジアで想像された未来が、かなり最悪なかたちで到来しようとしている。あいつらには想像力が、ファンタジーが足りない。ついでにユーモアも。

cero『Obscure Ride』

Obscure Ride 【初回限定盤】

少し前の話になりますが、ここ最近、小沢健二『eclectic』に言及していたcero(というか高城晶平氏)が、前のシングルで『一つの魔法』をカバーしたとき、その出来そのものはともかく、「この曲を選択した」ということに妙に納得してしまいました。

なぜなら、この曲はオザケンのあの作品の中で、もっとも”当たり障りがない曲”だからです。あの作品の中で旧来のオザケンファンに唯一安心感をいだかせたこの曲は、ある意味であの作品の唯一のウィークポイントであり、わりと簡単に"さわってもよい"領域でした。だから、僕がceroのカバーを聴いて(逆に)感じたのは、新作―つまりこの『Obscure Ride』では、もっと『eclectic』の解釈について踏み込んでいるだろうな、ということでした。

『Obscure Ride』は、おそらくかなり沢山の人が思ったように、「あれ?間違って『Voodoo』かけちゃったかな?」というくらい、もろにディアンジェロなオープニングで始まります。続く既発シングルの「Yellow Magus」の、黒いリアレンジと併せ、「おいおい、かましてきたなー!!」という感じですね。

全体の雰囲気としてはダークでやや閉鎖的、夜の音楽といった趣で、これまでのceroとは明らかにムードが違います。近年の作品やライブにより予感されていたように、かなり濃いブラックミュージックマナーに、シティポップ、ラテン、ヒップホップ、ジャズ、トライバルなリズムなど、多様な要素がこれまで以上に高い完成度でまとめあげられています。

というと、昨今の渋谷系リバイバル云々を想起させますが、踏み込みが全然違います。最近、少なからぬミュージシャンが陥っているようにみえる、「ポップ」という言葉でなにもかもを許容する態度は、なるほど今日的なのかもしれませんが個人的には退屈です。そういう意味でも、冒頭にけだるく宣言される”Contemporary Eclectic Replica Orchestra”というキーワードは見逃せません。自らの音楽を「レプリカ」といってみせるのは、そういった(自らも含む)”渋谷系リバイバル”的な音楽への強烈に批評的かつ客観的なまなざしであり、だからこそもちろんceroだけはそこに留まらないという意志表明である、とも言える。

 

日本人のインディバンドであっても、ディアンジェロやケンドリック・ラマーら、あるいは(広義の)ソウル・ミュージックの巨人たちに比肩しうるサウンドを創造することは可能である。ceroがこの作品で示しているのはそういった矜持ではありますが、そういった「本物」を突き詰めれば、少なくともボーカリゼーションにおいてどうしようもない不可能性があります。つまり、他ならぬ高城晶平氏のボーカルの脆弱さ(下手だと言ってるのでも、技術がないと言っているのでも、魅力がないと言っているのでもありません。「根本的に」無理なのです。)がある限り、あそこに到達することはできない。そしてこれは、『eclectic』時に小沢健二に対してささやかれた言葉でもあります。

ここで重要なことは、確かに『eclectic』がコンテンポラリーなブラックミュージック~AORの文脈で強度のあるサウンドをもっていたとしても、本質はそこ(だけ)にはなかった、ということです。だって「eclectic=折衷的」なのですから。器に乗せられたものは何だったのか。おそらく問題は、小沢健二がそこにかけた魔法の方にある。ceroはどう挑んだのか。

『eclectic』の本質―『Obscure Ride』が抱えたテーマについて。ceroから示された回答を僕なりに解釈すると、それは「ここにいることの不確かさ」あるいは「ここではないどこかの予感」ではないか。

炎、夢、幻、双子、鏡。例えばそんなキーワードで、『eclectic』においては”あなた”(がいる世界)をめぐる非/現実的な感覚として。『Obscure ride』においては、様々なキーワードで示唆される彼方と此方の世界をめぐる感覚として。確かに自分(あなた)はここにいるのだけれど、いつからいるかわからないし、本当にいるのかわからない、あるいは、別の世界があるのかもしれない。それが例えば夢だとして、こちらが誰かがみている夢なのか、向こうが自分のみている夢なのかわからない。どちらともつかない揺れ動く、入れ替わる奇妙な感覚。「obscure=曖昧」な感覚。

『Obsucure Ride』において、ディアンジェロマナーの窒息的なリズムなど、全体に風通しのよくないサウンドが選択されているその理由は、この奇妙な閉塞感を引き寄せるためではないか。


そして「Ride」の部分。「どこかへでかける」という感覚もまた同様に重要かもしれません。「今夜はブギーバック」はもちろん、『eclectic』における生まれ変わりである「〜あの大きな心」においても主人公は夜、出掛けることで、物語がはじまります。そのとき自分はどこへ向かっているのか。Summer Soul=覚まそう。どちらが本当の世界かは曖昧に閉じています。


夜と朝の間にある白夜の時間、あるいは退屈なこの街と辺境のあいだ。あるいは、あるいは…。どこかとどこか、いつかといつかのあわい、『Obscure Ride』がぼんやりと指し示すのはそんなところです。そして、そこはもしかしたら20年前に”空中キャンプ”と呼ばれた場所なのかも知れません。

備忘録

備忘録です。

なつやすみバンド。

まさかの(?)メジャーデビュー。
トーキョーINIDIEからまんをじして、という感じが感慨深い。

Nature Danger Gang。


ぼく脳さんのファン。

菊地一谷(QN)。



ふぇのたす。



Kitty , Daisy & Lewis。



The Pop Group


○○年ぶりの新作、もここまで来たかと思うと感慨深い。

Phew



Swervedriver


○○年ぶりの新作、もここまで…(略)

Mourn。

松たか子



シャムキャッツ


彼らもメジャーでやってほしい。
小さい箱でも僕には彼らがローリング・ストーンズにみえる。

Blur


○○年ぶりの…(略)

戸川純は関係ない

のいづんずり、ノイズとせんずり、のいづんずり(字余り)。

というわけで、80sのそう長くはない期間活動した京都のアングラNEW(NO)WAVEバンド「のいづんずり」について。

リーダーである福田研(ex.アマリリス)を中心に京都で結成。日本の祭り囃子や民謡を独自の奇妙なファンク・サウンドに乗せたそのサウンドは、ファンクといっても黒さからは離れていており、コールド・ファンクというか、ジェームズ・チャンス辺りがちらつきます。また、”のいづ”というものの、ジャンルとしてのノイズはむしろ殆ど聴かれず、音数の決して多くないストイックである種ミニマルな音となっております。ただし、上に乗っているものはまぎれもなく変態、という具合です。

 

1985年発表のファースト・アルバム『抱擁』にはなんとあの戸川純が参加しており、それはしかも、彼女の全盛期と思われる時期に重なります。

抱擁

抱擁

 

 無理やり今で言うならば、neco眠る大森靖子が参加、という具合でしょうか。弱いかな?今のバンドに希薄なもので、当時のアンダーグラウンドのバンドが共通してもっていたのは、「暴力の気配」のようなものかと思いますので、そういう意味では、Nature Danger Gangに大森靖子参加、の方がしっくりくるかもしれないですね。

 

脱線しました。

 

重要なのは戸川純がこの作品に魔法を与えているか、ということですが、個人的にはまあいてもいなくてもいいかな、というのが正直な感想です。

 

というのも、のいづんずりの場合、元が強烈なので、戸川がエキセントリックな歌声を聴かせたところでそれほど強烈な存在感を示せてるわけではないからです(参加曲が多くないというのもありますが)。

 

さらに、のいづんずりの傑作はむしろセカンドアルバムである『人間は金のために死ねるか』。ファーストよりも言葉もサウンドも明らかにキレッキレの名盤と言えます(だからこそ逆に、ここに戸川がいたならばまた歴史は違っていたかもしれませんね)。 

人間は金の為に死ねるか

人間は金の為に死ねるか

 

その後、VOインドリ・イガミの脱退(というかクビ)によってあっけなくバンドは瓦解。その後、ギター担当のタバタミツル(当時の写真若い!)は、かのボアダムスに参加するなど、現在に至るまで精力的に活動を続けています。

 

もう一回言っときましょうか。

戸川純は関係ない。

だって、のいづんずりの方がヤバいから。

岡崎京子展 『戦場のガールズ・ライフ』

世田谷文学館で開催されている、岡崎京子展『戦場のガールズ・ライフ』をみてきました。 

岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ

岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ

 

展示会の入口、そこから続く長い年表には、岡崎京子の生誕した年から2015年現在までの出来事が記されています。1996年、例の交通事故についての記載。当然ながら、それ以降の彼女の純然たる新作というのは、存在しません。それから約20年。

 

長すぎる不在。

 

しかし、本当に岡崎京子は不在だったのか、とふいに思います。年表に戻ると、事故後も、発刊含め彼女についてのトピックはほとんど途切れずに今年まで供給され続けています。(今年の項には「シャルリ・エブド事件」についての記載があり、少しばかり緊張が走ります。)

 

長すぎる不在?

 

僕は彼女のライトな読者なので、カルチャー強者(そのミーハーさとスピード感は、さらに戸川純を透過して、初期の椎名林檎を思い出させたりもします)である彼女と、時代を壮絶に表現した彼女は知っていましたが、「女性同士の友情」を描き続けた彼女は知らず、この展覧会においてはそれが新鮮な観点に映りました。リバーズ・エッジの後のセクションにそれが配置されていることも、やたらと高い位置から彼女を地上へと降ろしてあげる試みにもみえたりして…。そんなことを含め、展覧会全体が、女の子の「ライフ」について多面的にみつめた岡崎京子を表現している、ということはとても重要に思われます。

 

にもかかわらずなんですけど、この展覧会をみて、それでもやはり、それでもやはり岡崎京子は『リバーズ・エッジ』なのだ、と思いました。

 

時代にひとつ大きな楔を打ち込んだ表現は、ゆっくりと色褪せることを義務付けられるものです。そして、この作品が発表された90年代半ばと現代とでは、当然ながら様々なことが違っています。

 

例えば、20年前よりさらに僕らはどうしようもなく子供だということ(岡崎京子が不在だったこの約20年の間はちょうどインターネットの隆盛と重なると思いますが、それによって、菊地成孔が言うように僕らは退行しているのかもしれません)。あるいは、20年前よりさらに僕らはどうしようもなく平和ボケしているということ。など。


それにもかかわらず。なぜなんでしょう。1994年に発表された『リバーズ・エッジ』の表現の密度、読み手に突き付けてくる強度は、いまだに色褪せていないように思われます。

 

「平坦な戦場で僕らが生き延びること」

 

この作品が射抜いてしまったものが、あまりに本質的だったということでしょうか。

 

そもそも、「色褪せてない」という言葉は適切でないようにも思えます。「まだ、僕らは依然としてここにいる」、とでもいった具合。

 

この作品以降の岡崎作品に漂う圧倒的な凄みは、漫画表現のひとつの臨界ですらあるように思えます。

 

そして、たいへんに不謹慎ではありますが、(事故があろうがなかろうがですが、)臨界に差し掛かった以上、その後彼女が、「不在」になってしまったことに正直違和感は感じないのです。例えばそれは、佐藤伸治を思い出させたりもして…。

 

さて、最後にやはり、小沢健二に想いを馳せざるを得ません。1996年ごろに活動のスタンスを少しばかり変え(たようにみえ)、その後長い不在に入った彼の頭には、やはり岡崎京子のことがあったのだと思います。

 

そして、その長い不在により、彼は結果的に、何か運命的なものを「回避」したようにもみえてきました(かなりあやしい話になってきましたね笑)。この展覧会のガイドブックに寄稿された、彼の相変わらず素晴らしい文章を読んでいたら、そんな、極めて眉唾な、不在と運命とポップカルチャーについての関係、なんてことを考えてしまったのでした。

 

”何度も君の名前を呼ぶ / 本当の心捧げて呼ぶ / 

この愛はメッセージ / 僕にとって祈り /僕にとって射す光”

小沢健二 / 戦場のボーイズ・ライフ)