まにまに音楽生活

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1999年の想い出①

個人的に、日本のロックのピークタイムは1999年であった、と思っています。

 

当時中学生だったというきわめて個人的な思い入れ故、ということは否定できないのですが、他にもそれなりに理由があります。

一言でいえば、それは、この時期横溢していた”ブレイクの予感”です。

 

国内のCD販売枚数がピークを記録したのは前年の1998年ですが、1999年もその勢いは持続しており、実に30タイトルものアルバムがミリオンセラーを記録しています。

1999年は、つまりCDが、音楽が”売れる”時代だったのです。

 

もちろんミリオンセラーを記録するビッグアーティストは限られていましたが、そんな状況の中で、インディー色の強いロック(広義の、ですが)であってもネクスト・ブレイクがありえるような空気があったと思いますし、実際にかなりマニアックな嗜好を持っているアーティストが多数メジャーで勝負していました。

 

”ブレイクの予感”。

 

ロッキングオンジャパンの1999年3月号の表紙を飾っていたのは、当時20歳そこそこのDragon Ash降谷建志でした。

 

1998年に決定的なアンセム「陽はまたのぼりくりかえす」をものにし、アルバム『Buzz Songs』で各所から圧倒的な評価を得ていたDragon Ashの1999年は、最初からブレイクの前夜のひりひりする様な高揚感の中にありました。

 

Let yourself go,Let myself go

Let yourself go,Let myself go

 

 3月にリリースされた「Let yourself go,Let myself go」を皮切りに、直球タイトルの「I ♥HIP HOP」、日本のヒップホップ重鎮の一人ZEEBRAACOをフィーチャーした「Grateful Days」、勝利宣言であるアルバム『Viva La Revolution』をリリース。Dragon Ashはこの1年でオリコンチャートを制覇し、文字通りの”革命”を成し遂げたのでした。オルタナティヴ・ロックの文脈から登場したバンドとしては歴史的快挙だったのです。

 

『Viva La Revolution』は楽曲がヒップホップサイドとロックサイドにほぼ明確に分かれており、そういった意味で分かりやすく過渡期のアルバムです。当時は「革命」という言葉により高揚感ばかりを受け取っていましたが、今聴くと、前作の『Buzz Songs』にあったような自由な創造性というのはむしろ封じられており、ある種の責任を受け入れ大人になるような「覚悟」を感じるアルバムでもあります。

 

苛立った等身大の若者として登場した降谷建志は、このブレイクと前後してB-BOYの雰囲気がますます強くなり(HIPHOPに接近しているので当たり前なんですが)、個人的には「あ、、その革命は僕のじゃないね、、」とかなんとか中学生的な逡巡を経て急速に熱が冷めていったのを覚えています。

 

そんなこんなで、いつからか彼らの音楽をほとんど追わなくなってしまいましたが、この時期の格好よさと、「Grateful Days」でサンプリングされているのがSmashing Pumpkinsの名曲「Today」のイントロである(普通はできないような大ネタ中の大ネタですが)というようなナイーブさもあり、やはり僕は1999年までのDragon Ashをいつまでも愛してしまうのでした。

 

その後も加速度的にヒップホップに舵を切っていったDragon Ashは、盟友であったはずの先輩ZEEBRAから手痛いディス(「公開処刑」)を受け(事件としてはZEEBRAからですが、空気感としては数多くのヒップホップのプロパーたちからの、といってよいと思います)、ヒップホップと一定の距離をとり、独自の音楽路線を進めていきます。

 

ディスを受けたことにより見えづらくなっていますが、日本におけるミクスチャー・ロックのひとつの完成形をみせたということと、日本語ラップのすそ野を広げた(TMCによるRIP SLYMEらのフックアップなど含む)という功績は、もっと積極的に評価されてもよいのかもしれません。

 

「Let yourself go,Let myself go」発売当時、ある口パクの音楽番組に登場したDragon Ash。そのとき、KJのマイクは上下逆さに握られていました。

 

1999年の初め、もっとも格好よかったのは間違いなく降谷建志でした。