まにまに音楽生活

よくある音楽、本、生活などについてのブログです。

cero『Obscure Ride』

Obscure Ride 【初回限定盤】

少し前の話になりますが、ここ最近、小沢健二『eclectic』に言及していたcero(というか高城晶平氏)が、前のシングルで『一つの魔法』をカバーしたとき、その出来そのものはともかく、「この曲を選択した」ということに妙に納得してしまいました。

なぜなら、この曲はオザケンのあの作品の中で、もっとも”当たり障りがない曲”だからです。あの作品の中で旧来のオザケンファンに唯一安心感をいだかせたこの曲は、ある意味であの作品の唯一のウィークポイントであり、わりと簡単に"さわってもよい"領域でした。だから、僕がceroのカバーを聴いて(逆に)感じたのは、新作―つまりこの『Obscure Ride』では、もっと『eclectic』の解釈について踏み込んでいるだろうな、ということでした。

『Obscure Ride』は、おそらくかなり沢山の人が思ったように、「あれ?間違って『Voodoo』かけちゃったかな?」というくらい、もろにディアンジェロなオープニングで始まります。続く既発シングルの「Yellow Magus」の、黒いリアレンジと併せ、「おいおい、かましてきたなー!!」という感じですね。

全体の雰囲気としてはダークでやや閉鎖的、夜の音楽といった趣で、これまでのceroとは明らかにムードが違います。近年の作品やライブにより予感されていたように、かなり濃いブラックミュージックマナーに、シティポップ、ラテン、ヒップホップ、ジャズ、トライバルなリズムなど、多様な要素がこれまで以上に高い完成度でまとめあげられています。

というと、昨今の渋谷系リバイバル云々を想起させますが、踏み込みが全然違います。最近、少なからぬミュージシャンが陥っているようにみえる、「ポップ」という言葉でなにもかもを許容する態度は、なるほど今日的なのかもしれませんが個人的には退屈です。そういう意味でも、冒頭にけだるく宣言される”Contemporary Eclectic Replica Orchestra”というキーワードは見逃せません。自らの音楽を「レプリカ」といってみせるのは、そういった(自らも含む)”渋谷系リバイバル”的な音楽への強烈に批評的かつ客観的なまなざしであり、だからこそもちろんceroだけはそこに留まらないという意志表明である、とも言える。

 

日本人のインディバンドであっても、ディアンジェロやケンドリック・ラマーら、あるいは(広義の)ソウル・ミュージックの巨人たちに比肩しうるサウンドを創造することは可能である。ceroがこの作品で示しているのはそういった矜持ではありますが、そういった「本物」を突き詰めれば、少なくともボーカリゼーションにおいてどうしようもない不可能性があります。つまり、他ならぬ高城晶平氏のボーカルの脆弱さ(下手だと言ってるのでも、技術がないと言っているのでも、魅力がないと言っているのでもありません。「根本的に」無理なのです。)がある限り、あそこに到達することはできない。そしてこれは、『eclectic』時に小沢健二に対してささやかれた言葉でもあります。

ここで重要なことは、確かに『eclectic』がコンテンポラリーなブラックミュージック~AORの文脈で強度のあるサウンドをもっていたとしても、本質はそこ(だけ)にはなかった、ということです。だって「eclectic=折衷的」なのですから。器に乗せられたものは何だったのか。おそらく問題は、小沢健二がそこにかけた魔法の方にある。ceroはどう挑んだのか。

『eclectic』の本質―『Obscure Ride』が抱えたテーマについて。ceroから示された回答を僕なりに解釈すると、それは「ここにいることの不確かさ」あるいは「ここではないどこかの予感」ではないか。

炎、夢、幻、双子、鏡。例えばそんなキーワードで、『eclectic』においては”あなた”(がいる世界)をめぐる非/現実的な感覚として。『Obscure ride』においては、様々なキーワードで示唆される彼方と此方の世界をめぐる感覚として。確かに自分(あなた)はここにいるのだけれど、いつからいるかわからないし、本当にいるのかわからない、あるいは、別の世界があるのかもしれない。それが例えば夢だとして、こちらが誰かがみている夢なのか、向こうが自分のみている夢なのかわからない。どちらともつかない揺れ動く、入れ替わる奇妙な感覚。「obscure=曖昧」な感覚。

『Obsucure Ride』において、ディアンジェロマナーの窒息的なリズムなど、全体に風通しのよくないサウンドが選択されているその理由は、この奇妙な閉塞感を引き寄せるためではないか。


そして「Ride」の部分。「どこかへでかける」という感覚もまた同様に重要かもしれません。「今夜はブギーバック」はもちろん、『eclectic』における生まれ変わりである「〜あの大きな心」においても主人公は夜、出掛けることで、物語がはじまります。そのとき自分はどこへ向かっているのか。Summer Soul=覚まそう。どちらが本当の世界かは曖昧に閉じています。


夜と朝の間にある白夜の時間、あるいは退屈なこの街と辺境のあいだ。あるいは、あるいは…。どこかとどこか、いつかといつかのあわい、『Obscure Ride』がぼんやりと指し示すのはそんなところです。そして、そこはもしかしたら20年前に”空中キャンプ”と呼ばれた場所なのかも知れません。